2011年12月16日金曜日

2011年11月16日水曜日

「哀号(アイゴー)」と泣く不自然さ

朝鮮を語るうえで重要なのは、”言葉の貧しさ”だ。これも日本とは大きく違う。
「華夷秩序」の中にあった朝鮮の唯一の文化は「中華の真似事」だった。漢字を入れ、漢語を入れて、それを大事にしすぎたあまり、朝鮮オリジナル語をほとんど失ってしまった。
 この朝鮮のケースは世界でも珍しいケースと言える。例えば、フィリピンは、スペインに占領されてスペイン語を教えられ、アメリカに占領されて英語を教えられても、自分たちの言葉であるタガログ語を捨てなかった。
朝鮮民族は、支那という隣の国に文化的侵略を受けるや、自分の文化を自らすすんで全部捨ててしまった。その結果、今は二割ほどしか古語、オリジナルの言葉がほとんど残っていない。昔の人がどんな名前をつけていたのかもまったくわからない。今の朝鮮人の名前は「支那風の名前」であって、千年くらい前に彼らはとっくに「創氏改名」している。
 この「言葉を捨てたことによる弊害」を、こういう例で言うことができる。
 例えば悲しいとき、日本人であれば「悲しい」と表現するだけでなく、「わーんわーん」とか「えーんえーん」とか「めそめそ」といったように、表現方法がいろいろある。しかし彼ら朝鮮人は、泣くのも漢字で泣く以外にない。どう泣くか。「哀号、哀号」と泣く。
 これはおかしい。なぜなら、「哀号」は、「泣き叫ぶこと、またはその泣き声」の意味だ。つまり彼らは、「泣き声、泣き声」といって、泣いている。
 日本語の「めそめそ」も「しくしく」も「わあわあ」も、どれ一つ表現できない。本来あったオリジナルの言葉も失ってしまって、語彙が絶対的に不足している。「ありがとう」というのも、「感謝(カムサハム)」という、漢語の言い回しで代用している。朝鮮人は言葉に非常に不自由している。文化は言葉がないと育まれない。だから朝鮮には文化がまったくないともいえる。
 十五世紀になって、李氏朝鮮の四代目国王・世宗が諺文(ハングル)をつくった。漢字ばかりでは教育が普及しないので、日本の仮名を真似て考案したのだ。しかし、あまり広まらなかった。漢字・漢語を権威として使っていた支配階級である両班が抵抗したからだ。